【095】 道 し る べ
                                                                      

  下町の一角には、 苔むした古い「道しるべ」がある。 史跡の碑によれば、 1755(宝暦5)年に建てられたもの。 いまから250年前だ。 出羽三山の信者(講中)が無事に参拝できた記念に、 『旅人に役立てよう』と作ったものだという。 
  交通機関のない時代に、 徒歩ではるか遠く、 山形県の出羽三山(山月山、 湯殿山、 羽黒山)まで出向いていたのは驚異的だ。 
  昔の人は健脚だったにしろ、 旅先で病気とか、 不慮の事故とか、 追剥(おいはぎ:強奪、 略奪)とかに遭う確率が高い。 無事に帰りついた喜びは納得できるものがある。 
  現在ならば、 葛飾の一角に出羽三山の方角を示されても、 まったく役立たない。 京成電車で上野駅に出て、 新幹線で山形駅に向かうだけだ。
 

  江戸時代は、 この「道しるべ」が信者に、 千葉方面の成田山と、 東北方面の出羽三山と、 岐路だと教えてくれたのだ。 役立つほど、 旅人の往来があったと推量できる。
  松尾芭蕉の『奥の細道』を学んだ学生時代、 芭蕉が俳人として特別な人間だから、 奥州の旅ができたのだと、 勝手に信じ込んでいた。 
  しかし、 下町の苔むした「道しるべ」をみて、 『奥の細道』の見方が違ってきた。
 

  「道しるべ」建造の動機が、 『旅人に役立てよう』という趣旨だ。 それほど、 庶民の間で、 奥州の旅が流行していたのだ。 だから、  道しるべが必要とみなされたのだ。 
  当時は、 伊勢参り、 富士講など、 秩父路の遍路、 数を上げれば多々ある。 江戸の庶民は信仰を背景にした、 旅が好きだったのだろう。 信仰にしろ、 観光にしろ、 旅に出たい人間の気持ちは、 古今おなじなのだ。 
  少なくとも、 芭蕉が特別の旅人だとは思えなくなった。
 

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