【049】 ビヤー樽の誘惑
  夕暮れ前に見る、 あの二つのビヤー樽は目に毒だな。 夜が近づくと、 招き猫だ。 きょうも、 きっと帰りがけに誘惑されて、 立ち寄るだろうな。

  それよりも、 会社に帰る足が重いな。 朝、 出かけ前に、 「9分9厘、 まちがいなく受注できます」と胸を叩かなければよかった。 後悔するな。 上司の怒鳴り声がいまから聞こえてくる。

  やさしさがみじんもない上司だから、 『努力だけでは飯が食えないんだ、 営業成績だけがすべてだ』といかつい顔で、 ガミガミ怒る。

  うちの上司はふだんから『手柄は自分のもの。 失敗は部下の理由(せい)』にする。 部下は、 まいど無能扱いにされる。 面白くないんだよな。

  あんな上役の下では、 サラリーマン人生最大の不幸だ。 悲しいかな、 親と上司は選べないというし。 

  自家(いえ)に帰れば、 これまた女房の小言だ。 給料が安いだの、 働きが悪いだの、 こどもの世話は押し付けぱなしだのと。

  おれの勤め先は、 10人たらずの下町の小さな零細会社だ。 女房は誤解している。 大企業のエリート・サラリーマンの年収と比較し、 何だかんだという。 肩身は狭いし、 わが家での晩酌は気が引けてしまう。

  夜の帰り道、 下町の路地にネオンがつけば、 きっとビア樽の前は素通りできないだろうな。 きょうの愚痴と不満はスナックで処理しておかなければ、 明日の人生が暗くなる。 

  スナックのカウンターで知り合った仲間の友との語らいが唯一の楽しみか。 『一度選んだ女房は、 そうかんたんに変えられないし、 ストレスがたまるよな』。 この言葉はかなりウケル。 まわりの客は妙に同調してくれる。 どこの家庭もおなじか。 

 048へ  <= 100景 TOPへ => 050へ

穂高健一の世界トップヘ戻る

Copyright(C) 2006-07 Kenichi Hodaka. All right reserved.