【100】 下 町 の 桜
                                                                      

  中川は桜土手で有名だった。 花見といえば、 中川の桜。 隅田川の桜には比べても、 見劣りがしないものだった。 年一度の、 花見の宴はどこまでもつづいていた。 下町のひとは総出で酒を飲み、 歌い、 踊り、 料理をつまみ、 子どもらは嬉々として走り回っていた。
 

  100年を一区切りとみなせば、 数十年に一度は中川の水は暴れていた。 曲がりくねった堤防はどこかで破られた。 被害は出るが、 総出で復旧させていた。 
自然災害は人間の力や能力を超えている。 水害に慄くよりも、 春爛漫の桜を楽しむ。 葉桜並木は夏も涼しい。 それが先人の英知だった。
 

  世のなかには利巧ぶるひとがいる。 「中川は氾濫の歴史だ。 水害から人命を守る、 治水対策は不可欠だ」とかれらは正義の声として叫んだ。 
 人命が最優先。 このことばは桜よりも美しくひびく。 下町の住民は反対できなかった。
 

  利巧ぶる人たちは、 樹齢数十年の桜が惜しげもなく伐採させた。 高さ3メートル程度の、 灰色コンクリートの護岸を河口に向けて延々と作った。 昭和時代の話だ。
 

  平成時代になると、 下町の雑然とした街なかにも、 斜めに一直線の生活道路ができた。 こちらには本ものの利巧なひとがいた。 中川の桜を懐かしむ住民の心をくみ取り、 桜の苗木を延々と植えた。 それは数キロに及ぶ。
 

  やがて、 淡紅色の桜並木の道となった。 
  両側に屋台が出はじめた。 銭湯跡の空き地では、 イベント踊りがくり広げられた。 年配者は揃いの着物をきて、 「東京音頭」を踊る。 毎年の、 「桜まつり」となった。 
  護岸堤防は半世紀たった今、 これでは水害が防げない、 と取り壊されていく。 スーパー堤防に造り変える。 利巧ぶった人たちの血筋が、 「高潮(津波)、 川の大増水に襲われたら、 水は堤防を越えるが、 堤防は破られない」という。 住民サービスだといい、 そこに公園を作り、 桜の苗木をほんのすこし植えた。
 

 川の水がスーパー堤防を越えた、 住民への被害を「水害」という。 かつての桜土手の中川は数十年ごとに濁流で決壊し、 被害を受けていた。 それも、 「水害」という。
 

 中川の桜は下町の象徴だった。 それを懐かしんでも、 とりもどせない。 わたしたちは半世紀、 一世紀後にむけて何が残せるのだろうか。 
  『東京下町の情緒100景』が、 100年後には何コマ残っているのだろうか。
 

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