【088】 夕暮れの慕情 |
下町の彼女は商家の娘だった。 10歳も年上の男性に想いを寄せていた。 かれは売れない戯曲を書いていた。 彼女はふいに彼からデートに誘われた。 ふたりは街なかで肩を並べて歩いた。 公園でブランコを乗ったり、 外食レストランで食事したり、 会話が弾んだ。 かれの最新作は『夕暮れの慕情』だった。 今回もお金にはならない作品だったけど、 落胆には慣れているという。 売れない戯曲家は、 フリーターで生活費を稼いでいた。 |
||||
「ストーリーを聞かせて」 「淡く切ない愛の物語なんだ」 かれがしずかに語ってくれた。 「かわいそうな恋人ね」 彼女は哀れなヒロインに同情した。 彼女自身は実に幸せなひと時だった。 「きょうは夜の帳(とばり)が下りる前に、 君を帰してあげたい。 また、 逢おうね」 かれは優しい口調でいう。 (夜になっても、 いいのよ) 彼女は自分のほうから言えなかった。 |
||||
数日後、 かれから二度目のデートを誘われた。 「また、 いろいろ話したいけど、 ぼくの休みは水曜日なんだ」 「水曜は習い事で、 都合が悪いの」 彼女は心にもないことを言ってしまった。 習い事は月に一回だったのに。 それすらもいかようにもできた。 男の誘いにかんたんに乗る、 そんな軽い女にみられたくない、 という気持ちが心にあったのだ。 |
||||
「あれは恋の序曲だけだったんだね。 いい思い出だよ」 かれのことばが胸に突き刺さった。 「悪いわね」 彼女はあえて淡々とした態度をとった。 誘いを一度断ったことから、 かれは連絡をよこさない。 切なかった。 (私って、 愚かな女。 二度目のデートを断るなんて) 彼女は自分を責めるばかりだった。 |
||||
きょうも街のかなたに陽が沈む。 藤紫色の空にはスズメが群れて、 夜の塒(ねぐら)を求めて街路樹を渡り歩く。 一日が終わろうとするたびに、 かれの作品「夕暮れの慕情」を思い出す。 作品は愛する人に逢えない、 切ない女心を描いていた。 それなのに、 戯曲家のあなたはなぜ一度断られたからと言って、 すぐ身を引いてしまうの。 (あなたは、 女の恋心がわかっていない作家) 彼女の心は沈むばかりだった。 |
087ヘ <= | 100景 TOPへ | => 089へ | ||